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書籍名 | : | 最後のひと |
シリーズ | : | 単行本 |
著者 | : | 山本夏彦 |
初版発行 | : | 一九九〇年十月一日 〔平成2年〕 |
紹介版 | : | 一九九〇年十月一日 第一刷 |
発行者 | : | 新井 信 |
発行所 | : | 株式会社 文藝春秋 |
ISBN | : | 4-16-344690-7 |
定価 | : | 1,300 |
頁 | : | 271 |
印刷所 | : | 凸版印刷 |
製本所 | : | 矢嶋製本 |
装幀 | : | 多田 進 |
カバー装画 | : | 斎藤真一「中見世の街角」より |
カバー表紙扉イラスト | : | 斎藤真一「金杉町」より |
初出 | : | 原題『流れる』 「諸君!」 昭和六十三年八月号〜平成元年十一月号 |
かいつまんで言う | : |
「諸君!」連枝当時の原題『流れる』。 「無想庵物語」同様『装幀:坂田政則 カバーイラス:川田憲一または川田 徹』ではなく、 個人的にはこの2作は非常に好きな体裁である。 山本氏のコラムは、特にテーマが決められていないものがほとんどであるが、本書と「無想庵 物語」には確たるテーマがある。 本書の場合は花柳界であり、幸田露伴の娘文であり、森鴎外の娘茉莉である。それはこの 本を普通の山本夏彦氏の本とは違うものとしており、楽しめる人は楽しめるが、受け入れることが 出来ない人もいる。 それが、本書「おわりに」にある『私たちの父祖は東洋の古典を捨て、西洋の古典を得れば いいと思って、その双方を失って骨のない男になってもう六、七十年になる。』の結果だけでは ないとは思うが、同じく『俗に「断絶」といわれるものは明治にはじまっていま終わったところで ある。』ことによることは大であると考えられる。 私たちは先人の智恵さえも受け継ぐ素地を失ってしまった。しかし生憎、価値観や規律を零 から造り上げる地力は一世代や二世代では育たない。それはまさに蜃気楼に漂う電気仕掛けの 漂流者か。 唯一の分り易く普通の流れは「運転手曰くOLに処女なし」の『このごろはいなくなったが、十年 以上前は個人タキシーの運転手で「OLに処女なし」と憤慨するものがよくいた。随所にラブ ホテルが建ったころで、女たちはそこへ車を乗りつけて恥じないと運転手は口をとがらせて 賛意をうながすから、やきもちではないかとは言えないから堅気のOLは歩いているよと私は 慰撫した。貴君は職掌がら専らホテルへ行く客を乗せる、行かない娘たちは第一車なんかには 乗らない。人数は乗らないほうが多いにきまっている。講うご休心。』言われれば当り前であるが、 含むところは多い。 |
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シリーズ | : | 文春文庫 |
初版発行 | : | 1994年8月10日 〔平成6年〕 |
紹介版 | : | 1994年8月10日 第1刷 |
発行者 | : | 堤 堯 |
発行所 | : | 株式会社 文藝春秋 |
ISBN | : | 4-16-735208-7 |
定価 | : | 450 |
頁 | : | 285 |
印刷 | : | 凸版印刷 |
製本 | : | 加藤製本 |
装画 | : | 斎藤真一 |
装幀 | : | 多田 進 |
初出誌 | : | 単行本 平成二年十月 文藝春秋刊 |
解説 | : | 松山 巖 |
かいつまんで言う | : |
山本夏彦氏の文春文庫18冊の内、8冊目。 松山 巖氏が「解説 −おぬしはワルよのう」に『私はこの本を読み終え、もしかして山本さんの 「最後の書」でないか懸念した。山本さんは自己を語らぬ人である。言い訳を嫌う人である。が、 『無想庵物語』で武林無想庵に仮託して自己の半生を書いた。この『最後のひと』では自分の 生き方を文と茉莉に仮託している。むろん、言い訳はないが、これほど心情を吐露するとはと 私は訝しんだ。』とあり、しかし『ところがどっこい』でありこの時で本の出版数としては半分である。これ以降も旺盛な創作意欲により、我々に多数の本を残してくれた。 だが、「無想庵物語」と本書「最後のひと」は別格である。 本カバーのコピー『日本人が喪した文化とその終焉を、独得の美意識「粋」を育んだ花柳界の 百年の変遷を手掛りにして描』いた味は濃い。 |
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